今年も年賀状の季節になった。
漫画原作者の
西ゆうじ氏が亡くなって十ヶ月。
もう彼からライカのイラストを描いた年賀状は来ないんだと思うと寂しさが募る。
1986年『
家庭の事情』の原作者として彼と出会ったのが、交流の始まりだった。
それまで、原作付き漫画の経験がなかった僕と、放送作家から漫画原作者に転身中だった西ゆうじ氏との組み合わせを考えたのは、ビッグコミックオリジナル(小学館)の名編集者Hさんだった。
ある日、Hさんから電話がかかってきて、その内容は
「辰っつあん、原作付きやってみない?」
というものだった。
なんだかよくわからないまま編集部まで出かけて、原作のシナリオを見せてもらった。
それまで、原作付きの漫画に縁がなかったので、
「ヘ〜っ、漫画の原作シナリオはこういうものなのかァ」
と妙に感心したのを覚えている。
でも、あんまり原作付きに興味がなかったので躊躇していると、編集者Hさんがこう言った。
「内容はどんどん変えていいからね。それにこの人物だけど、シナリオでは男性だけど女性にしてよ」
原作と言うものは一字一句変えてはいけないのではと思っていたので、それならできそうだと引き受けることにしたのだった。
そんなわけで僕にとっての初めての原作付き漫画『家庭の事情』はビッグコミックオリジナル増刊号に掲載され、思いのほか評判がよかったようでシリーズ化されることになったのだが、一番とまどったのは、編集者でも原作者でもなく漫画家の僕だった。
そもそもこれまでずっと4コマ漫画中心の仕事だったので、アシスタントはいない。4コマ漫画に比べてページ数の多い原作付き漫画を、定期的に制作できる状態ではなかった。背景を手伝ってくれる人を、編集部に紹介してもらったり、劇画家(今、こんな言い方あるのだろうか?)の友人に紹介してもらったりと、なんとか量産体制を整えた。しかし、プロダクションシステムで制作するわけではなく、背景を外注するという方式なので、まずアシストしてくれる人のスケジュールをきき、それに合わせてネームから作画の日程を決めるという、なんだかよくわからない制作工程だった。4コマ漫画家なのに、なんでこんな苦労をしてまで原作付き漫画を描かねばならないのかと、悶々としつつもそれなりに楽しめたのは原作者の西ゆうじ氏との相性がなかなかよかったからだ。
彼とは、同じ話で何度でも盛り上がることができる感覚が共有できた。その都度、微妙に話の内容が違っているのだが、それでも楽しかったのだ。もしかしたら、お互いの話を全然聞いていなかったのかも知れないが、とにかくウマがあったんだろう。
他の原作者と漫画家との関係がどうなっているのかよく知らないが、我々はよく会って打ち合わせをした。それも編集者と打ち合わせをする前にだ。
まず、なんとなく構想ができたら西氏から電話がかかってくる。
まだシナリオができる前に二人で会って、あーでもないこーでもないと練り上げて行く作業は、常日頃ひとりで四コマ漫画の構成をやっている作業とは趣きが違ってなかなか面白かった。その合間に、全然関係ない話が入って、おおいに盛り上がるのは毎度のことだった。場所はファミレスが多かったのだが、あんまり美味しいとは思えないコーヒーを何杯もおかわりして、店を出る頃には二人とも腹がダボダボになっていた。
ある打ち合わせ後のこと、漫画の中にバッティングセンターだったかボウリング場だかが出てくるので、参考がてら見に行こうと言う事になった。彼の自転車に二人乗りしてファミレス前の急な坂道を下って行ったのだが、この自転車には荷台がないので、僕はハブ付近に足をのせて西氏の肩に手を置き、振り落とされまいと必死だったのを覚えている。当時二人とも三十代だったが、平日の真っ昼間から自転車に二人乗りして奇声をあげて坂道を下っている図は、若いのにリストラされた変な人たちね〜と周囲からは思われていたにちがいない。
その数日後、編集者との打ち合わせの場で、西氏が清書したシナリオを見せられるのだが、こちらはとっくに内容を知っているのに、さも初めて見たような雰囲気で受け取り、ネームから作画の作業に入るのだった。この時点で原作にはないアドリブを入れたりして最終的に原稿が完成する。
その原稿が掲載された誌面を見た西氏は、かならず次の回にはこちらのアドリブを踏まえたアイディアを出してくるのが常だった。
この『家庭の事情』はその後、ビッグコミックスペリオール、まんがライフオリジナルと掲載誌を変えつつ、単行本全三巻(竹書房:刊)としてまとまった。最終回は僕の提案でサイレント漫画でいこうということになり、西氏は全ページに渡りセリフのないシナリオに挑戦してくれた。作画の方も枠線以外は定規を使わないオールフリーハンド描画に挑戦したのは、今となってはいい想い出になっている。フキダシの部分がないので絵の面積が増え、いつもよりよけいに時間がかかってしまったのが、ちょっと計算外だったが。
最後に、ちょっといい話のような、そうでもないようなエピソードをひとつ。
高校生の頃、僕はヒッチハイクで野宿(テントなんか持たずに、公園やら、公衆トイレやら、公衆電話ボックスで眠るというもの)しながら日本中をまわったことがあったのだが、ある日、福井県の丸岡町という所にいた。別にここが目的地ではなく、たまたま直前にヒッチハイクしたクルマがここまで乗せてくれたからだけの理由だった。とても落ち着いた静かな町で、夏の昼下がりということもありシーンとしている。そんな中でどこからかビートルズが聴こえてきた。その家の前には沢山の材木がたてかけてあり、どうやら材木屋さんらしい。そうか、ここにもビートルズを聴いている人がいるんだ、僕と同じく高校生なのかな…と思いつつその町をあとにしたのだった。
そして十数年後、西ゆうじ氏と出会うのだが、きいてみると彼は福井県丸岡町の材木屋さんのご子息だった。年齢も一歳ちがいで、もちろん高校生時代はビートルズを聴いていたという。
果たして、あの時ヒッチハイクしながら偶然立ち寄った町で聴いたビートルズは、高校生だった西氏の部屋からだったのだろうか?
う〜ん、家業が材木屋だけに、「ザイモク見当がつきません」。